信玄塚

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所在地

横畑

信玄塚の所在地は横畑かじや地籍の東高山万正寺(尼寺・廃寺)の墓地(四、五一八番地ノ二)であった。

『甲陽軍艦』元禄本(一六八八~)品第三十九に「歳五十三歳で天正元年(元亀四年・一五七三)酉の四月十二日、三河・美濃・信濃三ヶ国の間、ねばねの上村と申す所にて御他界」とあり、その折り風林火山の旗を横にしたので、この地を横旗と呼んだと伝えている。さらに村内にある江戸末期の記録『根羽七宮廻り』に「十王の辻堂の傍に五輪(宝篋印塔)あり。又其一族の小なる五輪塔多数あり。宝暦(一七五一~)の頃、八幡勧請あり。武田信玄の墳墓と称えている」とその位置を記載している。

武田神殿終焉の地については、愛知県北設楽郡田口(現在・設楽町)・長野県下伊那郡根羽村・平谷村・浪合村・駒場(現在・阿智村)と各説あるが、主なものとして阿智村駒場と根羽村横畑の二説があり、歴史家はほとんど前者としている。

前掲『根羽七宮廻り』に「大暑なれば死骸こらへず、ここに埋めて旗印を立て」の記述は、古老へ確実に伝承されており、正確な事実であれば歴史的な大問題である。山梨県の開業医久保田泰昌氏のように田口福田寺死去、横畑埋葬説が生まれるのである。

昭和五十九年国道改修工事に伴う信玄塚の発掘調査では、一辺が2.2メートルの方形に石が並べられ、その内側に1.6メートル、深さ2メートルの墓擴が確認されたが、遺物の出土はなかった。

昭和五十六年十二月一日、信玄塚は村史跡、宝篋印塔は村有形文化財に指定された。

伝説「横畑の信玄塚」(根羽方言)

それはなむ、いまから四百年もめえのことだっちゅうに、甲斐の武田信玄はなむ、天下を平らげるにゃあ、なにがなんでも京都を出んと、あかんと思ったんだって。そいでまず諏訪にせめこみ、天竜川について南へ南へと軍勢を送り出したんだって。

越後の上杉謙信と川中島で十三年も、いくさをしとったっちゅうのはなむ、このときだっちゅうに、気の長いこんだなむ。信玄は大蛇が城や、飯田の城をせめ落としてから、ここまで来りゃあ大丈夫だと思ったんだって、飯田に本陣をおいて、八幡から下条、新野を通って遠州の方に軍勢を送り込むのと、駒場から根羽を通って三河に軍勢を送ったっちゅうに、この二つの道は信玄が京都に向かって打って出ようとして、あけた軍さ道だっちゅうに。

それからなむ、信玄の三河の国までせめてって、野田城にせまったときなむ、日ごろ元気な信玄も急に病気になったんだって。

けらいのものたち、こまったことになったなあと、いろいろ相談したが、「いっそのこと、甲府におつれもうして、ようじょうするほかねえ」ちゅうことになったんだって。

けらいのしゅうは信玄をおかごにのせ、静かに根羽まで来たときだって、信玄は病が重くなって、けらいの山県昌景っちゅうものをまくらもとに呼んで「その方明日は旗を瀬田に立てよ。」と、ゆめのうちにさけびながら、もう京都にのりこんだつもりで死んじゃったんだって。

そいで一同のものは信玄の死を大へん悲しんで、旗を横にふせて通ったんだった。それでなむ、ここらんとこを横旗ッちゅうようになったんだっちゅうに。

まんだこんなはなしもあるに、信玄の墓はもと道ばたにあったんだに、それが新道をつくるとき新道の下になったんだって、こでまで鈴音も勇ましく通っとった馬も、それからはおかしいじゃねえかな、どの馬もどの馬も、ここに来ると、みんな足をすくめて動かんのだって。

馬方しゅうは、どうしたんずらと、だんだん村のしゅうに聞いたら、そりゃあ信玄公の墓が、道の下になったもんでっちゅうもんで、墓をいまのとこへ移したちゅうに。

 

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